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タブーに触れる

少し前に「親ガチャ」という言葉が話題になった。


子供は親を選択出来ないから、どんな親のもとに生まれるかで人生が大きく違ってしまうという意味を表した言葉だ。


このセンセーショナルな言葉は、世間では様々な議論を巻き起こした。


私自身は、言葉というものが若者にとって重みがなくなっていったのと、道教思想の影響が薄くなった現代の表れなのかなとも思う。


そもそも、こういう考えが昔からなかったわけではない。


ただ、口に出してはいけなかった


そして多様性を認めるのだという流れの今、またタブーに触れる本がある。




これはイスラエルの女性の社会学者が、自身の研究をもとに書かれた本だ。


初めて表紙を見た時に、そのタイトルに衝撃を受けた。


世の中には子供を愛せない人がいることは知っているし、または育てられた親や環境などによって子供がそう感じてしまうケースがあることも知っている。


でも、子供のことは愛しているけれど、母になることを後悔するとはどういう意味なのか。


私も1人の母親だが、母という立場に後悔を感じたことがない。


一体どういう内容なのか気になって読んでみた。



読み進めていくうちに、後悔している母親たちの輪郭がわかってくる。


ここに登場する、後悔を感じている母親たちの年齢は26-73歳。うち5人は祖母になっている。


子どもの人数は1-4人、子どもの年齢は1−48歳、みな健常者である。


共通なのは、母親は全員イスラエルのユダヤ人。


それぞれ労働者階級、中産階級、上位中産階級で、高卒・大卒・専門卒など。


結婚をしたら子供を産むのが、社会の中でも自然界の中でも、ごく自然の流れだという考えそのものに違和感を感じることなく出産した人たち。


中には子どもを積極的に持ちたいとは思わなかった人もいたが、パートナーや親の希望に沿う形で母親になった。


産んでから自分自身の人生を奪われてしまったような喪失感や焦燥感を感じながらも


時間が経てば良い思い出なるという言葉を信じようと試みている様子や


子どもは可愛いし、それぞれが子どもの人格をとても尊重していて、幸せを願っている様子はインタビューからも伝わってくる。


実際に子どもを消してしまいたいのではない。


熱心に子育てと向き合っているのである。


ではなぜ後悔しているのか。




それは、自分が主体となる人生を歩みたかったから。


自分の人生と子どもの人生を切り離して考えたいけれど、母は他者の機能としてのみ存在する、フロイト哲学的信念の中にいる苦しみ。


母と子のアイデンティティを超えた関係を持つことを望み、与えられた母としての機能から分離しようとする女性の葛藤である。


しかし世の中には正しい母の道というものが社会に確実に存在し、この社会の期待から外れることをタブーとする風潮がある。


なのでこのような葛藤を持つことに、私は母として普通ではなく、おかしいのではないかという苦しみも伴う。




インタビューに答えている女性は、「自分」と「子ども」を人間として明確に切り離している


この自分に「母である自分」という立場が加わった時の、その責任や立場に後悔しているのだ。


子育てや母親という責任を放棄している人はいない。


責任を全うしている人が、「母親になって後悔している」と声を上げているからこそ衝撃的なのだ。




こういう考えがあるならば、その反対の考えの母親もいる。無数にいる。


自分と子どもの境界線がないまま、子どもで自己実現をしようとしたり、


子どもで自分の人生のやり直しをしようとする。


子どもの失敗は自分の失敗になるから、絶対に失敗しないように自分の考えを言葉や暴力や経済力などで押し付ける。


自分は自由に生きるのだと放置する人もいる。


母親はこれらの考えを悪と認識していないことも多く、むしろ自分は一所懸命に母親を務めているのだと考えている場合がほとんどだ。


こちら側は、これまでに社会問題になったり、時に犯罪とみなされたり、非難される対象となっていた。


そしてこれらに関する研究や本もたくさん書かれてきた。




「親ガチャ」「母親になって後悔」は、どちらも今を受け入れることが苦しい人々から生まれた言葉だ。


ありのままを受け入れるということは、社会が成熟すればするほど難しくなっていく。


この先、どんな困難がどんな表現となって世に顕在化していくのだろう。


もし機会があればぜひこの本を読んで考えてみてほしい。








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